「農薬」は近ごろ、無農薬や有機農業といった言葉の影で肩身の狭い存在になってしまった。市場に出ている農薬は人体や環境への影響を厳しくテストされているし(参考)、農薬を使っていない農作物はかえってカビなどが生えていて危険なこともあり得る。そんな中、新しい発想で「農薬」界にイノベーションをもたらしつつある研究者がいる。茨城大学農学部の菊田真吾准教授だ。
「もともと虫も好きではないですし、化学農薬のことを最初から研究していたわけでもないんですよ」
転勤族の家庭で育ち、人生で引っ越しを繰り返してきた人らしい、必要最低限のモノだけが配置されたミニマムな研究室で、菊田准教授は言った。テンポの良い語り口に朗らかさが溢れている。
学部時代は化学農薬ではなく、害虫の天敵となるような微生物を用いたり、虫が発生しにくい環境をつくったりする研究をしていた。そのうち化学農薬の研究もするようになったが、東京大学の大学院に入ってからは、昆虫の生理学、生化学的な研究にのめり込んでいく。
博士課程では、本所属は東大でありながらも、連携している農研機構(当時:農業生物資源研究所)の研究者から指導を受け、通う先も同機構になった。そこではイネの害虫の研究に取り組み、昆虫の体内における糖の輸送経路に興味をもつようになった。
昆虫は空を飛んだり跳ねたりするのに必要なエネルギーを、あの小さな体の中にどのようにして蓄えているのか。その鍵のひとつとなるのが「トレハロース」という糖だ。昆虫は体内に蓄積したトレハロースをブドウ糖などに変えて使う。だから昆虫の生体を知る上で糖の輸送経路をつかむことは重要なのだが、それは簡単なことではない。
タンパク質のようなある程度大きな分子であれば、それを試薬や抗体で目印をつけるなどして動きを可視化できるが、低分子の糖はそういうわけにはいかない。しかし、近年では、糖の分子自体は光らせられなくても、糖に結合させて光らせる物質をセンサーとして使う技術が出てきた。博士課程修了後、菊田准教授はアメリカのカーネギー研究所に留学し、その基本的な技術を習得した。......と、ここまでで既になかなかの紆余曲折。
糖が溶けた水にセンサーとなる物質を加えるとこのように蛍光する
ところがこの昆虫の糖の輸送経路のイメージング技術、実は結構お金がかかる。しかもその割には、昆虫の生体研究としてのインパクトはそこまで高まらない。ただ、このイメージング技術自体は、低分子の物質であれば糖以外も扱うことができる。「昆虫の成長に関わるホルモンを捉えるセンサーを作れないだろうか」と思い立ち、やってみたらこれが成功した。次にそのホルモンの動きに関わる化合物を見つけ、昆虫に塗ってみたところ、その昆虫たちがバタバタと死んでいった(参考)。
「この技術は、新しい農薬の探索に応用できる」――恐らく世界でまだ誰も手を出していないこの視点に菊田准教授がたどり着いたのは、まさに複数の研究分野を歩んできた「紆余曲折」の賜物だ。菊田准教授は,農薬の授業を担当する研究者として2018年1月1日に茨城大学農学部に着任した。2021年にそのアイデアを総説にまとめた(参考)。
先述したように、昆虫の重要なエネルギー補給源となるのがトレハロースだ。だから、このトレハロースが昆虫の中でどのように作られ、運ばれ、ブドウ糖に分解されるかを丹念に調べ、その経路をブロックするような化合物を見つければ、効果的な農薬として使用できるはずだ、というのが菊田准教授のアイデアだが、ここで狙うのは、トレハロースの生産や分解に関わる酵素ではなく、それを輸送する「トランスポーター」と呼ばれるタンパク質だという。それはなぜか。
「酵素の場合、昆虫以外の生物でも似たものが多く、それに作用する化合物は害虫以外に対しても有害になってしまうんです。そうすると薬剤の標的としてはなかなか適さない。ところが、トランスポーターとなるタンパク質については昆虫以外の生物にはない、あるいは性質が異なるものだということがわかってきています」
ここに農薬開発のポイントが凝縮されている。農薬によって最も重要なことは、ターゲットとする特定の昆虫だけに効き、一方でそれ以外の生物には害がない、ということなのだ。そして菊田研究室で現在主要なターゲットとしているのが、アブラムシである。
「アブラムシは寒い時期にオスが少し産まれる以外は基本的にすべてメスでして、『単為生殖』というのですが、子どもは同じゲノムをもったクローンなんですよ。そうすると、単一の薬剤標的を示す農薬の場合、それに対する抵抗性を有するような遺伝子配列をもった個体が出